木村容疑者の動機解明に血眼になるのもいいが、日本を支配する黒幕も追及すべし
2023年4月23日
今日投開票が行われる衆院補選と地方統一選挙分析については次回ブログの宿題にするとして、今回は2つの事件について意見を述べたい。
4月15日、木村隆二という24歳の男が、和歌山市内の漁場を訪れていた岸田首相に向けて筒状の爆発物を投げつけて現行犯逮捕された。
逮捕後、木村は元日弁連会長で都知事選にも出馬した宇都宮健児弁護士に弁護を依頼したが、宇都宮氏は刑事弁護であること、多忙であることを理由に断った。
刑事弁護は民事よりも初動対応に時間をとられることがあるので、別件で多忙であれば受任を躊躇するのはやむを得ない。
宇都宮氏は本来の弁護活動とは別に、地方統一選挙候補者の応援演説でも日々忙しく動いていた。
4月3日には府中市議選候補の西のなお美氏(無所属)の応援演説に駆けつけ、駅前で街頭演説を行った。
私もおよそ25分間の演説を現場で拝聴した。入管法改悪の動向、ロシアのウクライナ侵攻、憲法改悪、岸田政権の軍拡拡大と増税路線への懸念など、
市議選レベルではほとんど関係ないような話題を散りばめていたが、最後は地元の市民目線で話をきっちりまとめて話を締めくくるあたりは、さすがの話術であった。
彼ほどの超エリートが既得権益層に対峙して庶民目線で活動を続けているというは、今の日本では奇跡に近い。
それだけに、通行人のほとんどが彼の話を聞かず、素通りしていたのは残念だった。
岸田政権を批判する木村容疑者が宇都宮氏を当初弁護人に依頼したのは、ある意味筋が通っていたといえるが、
で、あれば、氏が過去に担当した選挙供託金違憲訴訟の訴訟資料を参考にして訴訟を起こすなど、状況打開のためにもう少し賢いやり方を選択すべきではなかったかと思われる。
2022年に神戸地裁に彼が起こした国家賠償請求事件の訴状をネットで読んだが、個々の主張は見事だと思う。
ただ、準備書面も読みたいのだが、こちらはアップされていない。
訴状だけ読んでも主張を正当に評価することは難しい。
たとえば、公職選挙法が定める被選挙権の年齢制限規定と供託金制度の合理性の是非について、
訴状には「本件立法不作為は、国家賠償法1条1項の適用上違法である」と書いているが、唐突な感は否めない。
この点の具体的な主張は準備書面でなされているのだろうか。読んでいないので何とも言えない。
通説が主張する「立法義務の存在と相当期間の不作為」の要件事実を論証するだけで、文字サイズ12ポイント、A4紙2枚は必要になるだろう。そのあたりは準備書面で書かれているのか。
6月に地裁に提訴して同年11月に請求棄却判決が出たということは、口頭弁論は多くて2回ほど、つまり、証拠調べもなく、ほぼ門前払い扱いである。
このスピード判決から察するに、断言はできないが、準備書面で十分な論証を怠っていた可能性の方が高い。
彼は判決を不服として、大阪高裁に控訴状を提出しており、今年5月に判決が出る予定だが、
ネットで控訴状を読む限り、一審提出起訴状とはうって変わり、散漫な内容になっている。以下、一部紹介すると、
「立候補を抑制することは、投票も抑制され国民に損害を与えている。」
「被選挙権を制限することで立候補が制限され、政治家は国民の信任ではなく、統一教会の組織票で当選、利益利得を不当に独占することができ、国民に損害を与え続けている。」
「統一教会などの組織票を持つ、癒着する政党が有利になる。」
「安倍元首相の国葬を国民の反対する中、閣議決定だけで行っている。」
「民主主義の選挙ではない。」(紹介ここまで)
個々の主張には賛同できるが、安倍国葬の不当性や統一教会の問題と要件事実との関連性が不明瞭である。
これでは来月の判決日を待つまでもなく、一審同様、残念な結果が見えていると言わざるを得ない。
ただ、繰り返すが、準備書面まで精査しないと木村の訴えの正当性を正しく評価することはできないし、すべきではない。
4月23日現在、彼は捜査当局の取り調べに対し、黙秘を続けている。訴訟もそうだが、今回の事件の犯行動機も現状わからないところが多い。
わからないのに、ああだこうだと憶測するのは今はやめるべきである。
それなのに、日本のテレビメディアは、上に弱く下に強いので、弱い立場でしかない木村の過去の行状を根掘り葉掘り調べては晒し者に仕立てている。
文春も今回はやりすぎである。親族や大して仲もよくなかった同級生らにあることないこと言わせて記事にしているが、現時点の報道としては人道上限度を超えている。
テレビも雑誌も24歳の人間の尊厳を顧みない悪意に満ちた報道を今は慎むべきである。
木村なら何も言っても書いても名誉棄損で訴えられないだろう、怖い目に会うこともないだろうと安心して叩いているということなのだろうが、
少しでもメディア人としてのプライドを持っているのなら、弱い者いじめばかりではなく、少しばかり巨大な相手に挑んで真実を暴く気概を見せてほしい。
81年の「大阪空港公害訴訟」の最高裁判決を巡り、法務省の意向を受けた元最高裁長官が判決前に介入していた疑惑が浮上している。
つまり、官邸が裁判所に「国側勝訴の判決にしろ」と命令した、との疑惑である。
これは過去の出来事ではない。今、まさに岸田政権下で起こっている理不尽がこの判例に凝縮されていると言っても過言ではない。
法務大臣→最高裁判所長官→担当裁判長の下達があった、と当時判事を務めた団藤重光氏が生前に残したとされるノートに記されていたとのことである。近畿大学の研究チームが4月18日に公表した。
当時の法務大臣は奥野誠亮で、首相は鈴木善幸だが、彼らは今更どうでもよい。
結論から言えば、米国の指令を受けた鈴木が法務大臣に命令して、裁判に介入して判決を変えさせたということである。
事案の概要は次の通り。大阪(伊丹)国際空港の騒音公害が深刻化したため、周辺住民300人が原告となって国を相手取り、
午後9時から午前7時の飛行差し止めを求めて出訴した、と。
一、二審は住民が勝訴したが、最高裁は国側の逆転勝訴判決を下した。
当時この判決は多くの法学者に酷評されたが、当然である。
一、二審は住民が勝訴、最高裁で敗訴、という結論はあってもいいだろう。だが、結論を変えた根拠がはじめから国側勝訴の結論ありきで塗り固められたとあっては見過ごすことはできない。
判決は、この問題を国家賠償法1条の問題ではなく2条1項の営造物の問題と捉えている。
つまり、空港は国営の営造物であり、その管理作用は私的施設の所有権に基づく管理機能と異ならない非権力的作用であるとしている。
そうだとしたら、住民らの民事訴訟による空港の使用差止請求が却下される筋合いはないはずである。
ところが最高裁は民事ではダメだと言う。何でも空港使用は、運輸大臣に付与された航空行政権限として、公権力の行使と不即不離に行使されるものなので、民事ではダメだと。
航空行政権なる意味不明の造語を創作・駆使して、何が何でも住民の訴えを認めたくないという最高裁の策謀がここに透けて見えてくる。
最高裁は、行政訴訟で争うのはよい、とも言っている。行政訴訟で争うとなれば抗告訴訟(取消訴訟)になるだろう。
だが、これも如何なものか。取消訴訟は、処分の違法性を争う主張だが、住民が求めているのは、「夜間に飛行機を飛ばすのはうるさいからやめてくれ」ということである。
取り消したところで、飛行機が止まるわけではない。要するに、行政訴訟では住民の本来の目的を達成できないのは言うまでもないだろう。
それをわかってて、最高裁はこのような悪意に満ちた判決を下したのである。許せないではないか。
この判例の判断の枠組みは、その後の騒音訴訟(名古屋新幹線訴訟、福岡空港騒音訴訟)や基地訴訟(横田基地騒音訴訟など)に負の遺産として踏襲されている。
つまり、この判決の不当性は現在進行形で生きているということである。
ところで、最高裁によると、運輸大臣(国)には航空行政権がある、とのことだが、事実ではない。
日米地位協定と国連軍地位協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律第3項(1952年7月15日施行)によると、
米軍は,もともと高度も安全も何も守らずに日本全国の空を飛んでもよい事が法的に決まっている。
この密約とつじつまを合わせるために、米国は裁判に介入してきたのだろう。
日本の上空は米国のものであり、日本国はそもそも管理していない、できないのだ、と。
だから、中国の気球を発見しても、河野太郎ではないが、「気球に聞いてくれ」ととぼけるだけになるのである。
日本のメディアに少しでも根性があるのなら、米国による日本支配構造の真実を追及してみたらどうか。
経済格差問題も含めて、今の日本が抱えているほぼすべての問題はここに帰着するはずである。
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