坂本龍一氏に冷淡な大メディアと小池百合子の言葉を忘れてはならない
2023年4月9日
2021年に名古屋の入管施設で死亡したスリランカ人ウィシュマ・サンダマリ氏の遺族の弁護団が、3月8日に報道機関に映像の一部を公開した。
これについて、齋藤法務大臣が記者会見で、
「これから裁判所で取り調べることになっている、(国側が提出した)およそ5時間分のビデオ映像の一部を、原告側が勝手に編集してマスコミに提供して公開した」と憤慨していたが、
その怒りをそっくりそのまま国側にお返ししたい。
国側と裁判所はグルになって、ウィシュマ事件を葬り去ろうとしている。
これまで幾多の本人訴訟に関わってきた私に言わせれば、この裁判の展開には大いなる不満がある。
昨年、弁護団は国側に、ウィシュマ氏が亡くなるまでの約2週間分の映像全295時間全ての映像の提出を求めていた。
これに対し、国側は「必要なマスキング措置を講じた上で、証拠として提出する」とした上申書を地裁に提出した。
これを裁判所が認めて、提出されたのが国が編集した5時間分の映像である。
だが、その映像を直接証拠として使うのなら、編集されたものではダメで、間接証拠(状況証拠のようなもの)としてしか使えないはずである。
かつて私は裁判で、相手とやりとりしたメールを直接証拠として提出したことがある。
メールの記載には改変を加えずに、訴訟物とは関係のない雑多なやりとりと思われる個所を削除して提出したのだが、裁判所から「編集されたものでは直接証拠としては使えない」と言われた。
裁判所曰く、「相手とのやり取りを記したメール全文を提出しなさい」と。問答無用の全面開示を要求された。
だが、やり取りの中には第三者に知られたくないプライバシーを含んだ内容や、ケンカ腰のどうでもいいようなやりとりが混在するなど、開示したくない内容が含んでいることもあるだろう。
たとえばの話だが、私がメールである質問をして、相手からその回答を得た場合、その質問と回答の間に、次のような主旨のやりとりがあったとする。
私(送信)「まだ質問Aの回答をまだもらってない。早く回答しろ」
相手(返信)「日中は○○のお相手をずっとしているから、考える時間はないね」」
私(送信)「お前が付き合っているヤクザの不倫相手など知るか。回答期限は今日のはずだ。早く返事をよこせ」
このあと、相手から回答の返信をもらったとする。
「Aという内容の質問をしたら、相手はBと答えた」という回答の内容をこちらは立証したいだけなのに、関係ないヤクザの女性の名前まで登場させたら無用なトラブルが起こるのは目に見えている。
この箇所を削除しても問題ないし、むしろ残した方が有害である。裁判所が不都合だと思ったら、問題があれば、審理の中で適宜指摘して補充要求してくればよいだけのことではないか。
それなのに、裁判所は、当初から全面開示でなければ直接証拠として採用しないと私に警告してきた。
話を戻すが、そうであれば、ウィシュマ氏の件で、映像の一部のみの提出でよいと裁判所が国側に認めたのは、どういうことなのか。私と国で対応が違うのは差別だろう。
弁護団が要求していた全295時間の映像ではなく、被告側に編集させた、しかもたった5時間分でもかまわないということで、無条件に直接証拠としての採用を認めるということなのか。
そもそも国は、後ろめたくないのなら、全面開示に応じてもよいはずである。
それを拒否し、自分たちで圧縮編集したものを提出しておきながら、弁護団がそれをさらに圧縮したものを公表したことを非難するのでは筋が通らない。(そもそも現時点で公表することに違法性はない)
全295時間のうちの290時間分には、要件事実とは関係ない箇所もあるだろう。だが、その一方、国にとって不都合な事実も埋もれている可能性は否定できないはずである。
裁判所はそのことを承知の上で(暗黙の了解を与えた上で)、結局、証拠の信用力なしとして国側を勝たせたいのだろうか、それとも
自分たちで証拠の一部提出を認めておきながら、いざ審理の段階で、「これでは証拠として不十分だ」として国側を勝たせたいとの策謀を弄しているのか。
とはいえ、公開された5分間のバージョンでも。公務員の故意または過失の認定にそれなりの役割を果たすことが確認できたのは収穫である。
これで原告側が敗訴するようなら、やはり裁判は茶番だということになるが、どうなるのか、裁判の行方に注目したいと思う。
次に、3月28日に死去した音楽家の坂本龍一氏について。
彼は反戦、反核、反原発を公然と掲げ、環境問題にも積極的に取り組むなど、音楽家の中でも稀有な著名人だった。カネ持ちでありながら、反既得権益層のスタンスを貫いた。
だからだろうか、死亡後の大手メディアの報道はあまりにも醜かった。
彼は死亡の直前に共同通信社の書面インタビューを受けていた。その記事は偶然にも死亡の翌日(3月29日)に掲載された。(ちなみに死亡の公表は4月2日だった)
直近のメディア対応は、おそらくこの書面インタビュー記事のはずである。私は29日当日にチェックしていたので不都合はなかったが、
この記事を死亡の翌日に再読しようとして、「坂本龍一」でヤフーとグーグルで検索したところ、パソコンで6ページめくっても出てこなかった。
記事は明治神宮の再開発に絡んだもので、既得権益層と政府の立場で言えば、国民にはあまり読んでほしくない内容である。
大手ポータルサイトが検索の上位からあえてはずした可能性が高い。
事実、大メディアのNHKと読売も、4月9日現在、彼の最後のインタビュー記事を伝えていない。
翌日の政府(松野官房長官)のコメントも、「心から哀悼の意を示したい」との型通りのお悔やみを述べただけで、言葉にも心がこもっていないように感じた。
死亡を伝えるテレビ各局のニュース番組が流したBGMが坂本の曲ではなく盟友の高橋幸宏氏が作曲したライディーンだというのもお粗末だった。
それを聞いていたモーニングショーのコメンテーターが涙ぐんでいたとなればジョークでしかない。
坂本という人間は複雑で、長年の追っかけファンでもなければ、外野の立場から彼のことを語ることはできない。
少し脱線するが、彼の人物像を把握する上で参考になるのが、2015年のYMO再結成時に行われたTBSのインタビューである。ユーチューブでアップされているので興味のある方は詳細をご覧いただきたいが、
このとき坂本は、MCの膳場貴子アナに次のようなことを言っていた。
「(80年代にYMOを解散(散開)した理由について)ロックバンドによくありがちな理由で解散した」
「あのころの自分に今出会ったら殴るだろう」
「(細野との関係について)大尊敬している」
自伝本「音楽は自由にする」では、80年代に解散した理由について「方向性の違い」云々とぼかしていたが、それは建前で、おそらく細野との人格上の確執(音楽性ではなく)が原因ではなかったかと世間では言われていた。
80年代に彼が5年間DJを担当したNHKFMの音楽番組「サウンドストリート」を私は子供の頃毎週欠かさず聞いていたが、そのことを示唆するような本音を漏らしたことがあった。
だが、「殴りあったことはない」とも言っていたし、立花ハジメ氏と細野を番組に呼んで、細野の新作ソロアルバム「フィルハーモニー」を紹介していたこともあったぐらいなので、
世間でうわさされていたほど、対立はそう深刻ではなかったのではないか。
解散の真の理由は、単純に「わがままに1人で縛りなく色々やりたくなった」ということではなかったのか。だからその後わだかまりなく再結成もできたと。一ファンとしては今はそのように解釈したいと思う。
そもそも「音楽の方向性の違い」との言い分が説得力に欠けるのである。坂本と細野のソロアルバムを聞けばわかることだが、
2人ともインストが7、ボーカルが3ぐらいの構成で、かつ、インストの方はともに難解で、説明をしてくれと言いたくなるような曲が多い(坂本のB-2UNITの「Not the 6 O'clock News」 は私には雑音にしか聞こえない)
異論はあるだろうが、その後の2人の音楽活動にも類似性があり(2人とも映画音楽、アイドル歌手などへの楽曲提供など)、方向性で決裂してしまうほど当時ズレがあったとは思えない。
両雄並び立たずでいったん別れたのだろう、という解釈がおそらく正しいのではないだろうか。
ところで、「若いころの自分に今出会ったら殴るだろう」との言葉は、彼の人物像をよく表している。
坂本の公での発言内容が明らかに変わったのは、米ニューヨーク在住時に体験した2001年の同時多発テロから帰国して以後である。
前出の「サウンドストリート」では、私が記憶している限り、環境問題と原発を語ったことなど一度もなかった。そもそも政治問題を語ること自体少なかった。
坂本が複雑な人間で、にわかファンが彼の全体像を語る資格はないと言ったのはそういうことである。
70~90年代までと2000年以降では、別人とまでは言わないが、発言や行動内容に明白な変化がある。(いい意味でだが)
明治神宮の再開発に物申して、東京都知事に手紙を出して再考を促すなど、30代の頃の彼ではありえなかった。
ここ20年間は、音楽家であると同時に社会問題の活動家として行動し続けた。
小池都知事に再開発を見直すよう手紙も送った。
これに対して、小池は
「事業者の明治神宮にも手紙を送られたほうがいいんじゃないでしょうか」
と回答した。
だが、そもそも都の認可がなければ事業者が勝手に工事を進めることはできないはずである。ゴーサインを出しているのは小池なのに、何を寝ぼけたことを言っているのか。
彼女のこの冷淡な性格は救いようがない。だから、有能な人材が離れていく。
先月末に東京都庁の政策企画局の職員20人が退職した。知事部局の筆頭ともいうべきエリート局で30~40代の中核が一斉離脱したのは、小池への嫌悪である。
2021年には、福祉保険局の職員が小池に反旗を翻して180人が退職した。
首都機能を破壊し続ける小池には国政復帰もささやかれているが、とんでもないことだ。この人間を政界から「排除」することが有権者の使命であると強く言っておきたい。
法形式上の認可権限は都知事にあるが、明治神宮の件で言えば、森元首相が実質的な決定権者である。小池に何を言っても実は何も始まらない。
森については、すでにネットメディアで色々言われていることなので、ここでは裏事情の紹介を割愛するが、森の一声があれば工事が止まることは間違いない。
だが、4000億円のカネが動いている現状、それはありえないだろう。
森でダメなら、岸田に再考を促すという手もある。
3月31日、東京地裁は、市民グループが申し立てた事業認可の執行停止申し立てを却下した。
グループは即時抗告を申し立てたが、その後の展開は100パーセント期待できない。
そこで岸田の出番である。行政事件訴訟法30条は、執行停止の申し立てなどがあった場合に、裁判所の裁定に対して内閣総理大臣が異議申し立てができることを認めている。
却下判決に異議を申し立てるのは本条の想定ケースではないが、制度上は問題ない。司法がどう判断しようと、岸田には工事をとめる最終権限があるということである。
だが、森の子飼いの岸田が森の意に逆らうことなどありえない。
工事を止める方法はまだある。次回の都知事選で工事中止を公約するであろう野党候補者を当選させるという方法である。
坂本の遺言、即ち、多くの都民の願いを現実のものとするには、それ以外に手段はない。
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