安倍銃撃山上の弁護団は本気で権力と戦う気がないのなら直ちに辞任すべきである
2023年1月15日
本題に入る前に、山上弁護団共々、辞任(辞職)に値するこの男の糾弾から始めたい。
立憲民主党の泉健太代表が正月に乃木神社を参拝したというが、いったい何をやっているのか。
前川喜平元文科省事務次官が「明治天皇に殉死した長州閥の軍人を神と崇める行為」とツィートしていたが、的確な批判である。
対する泉は「何だか息苦しいですね...。今年は幾つかの寺社を詣でましたが、近所の神社で国家繁栄、家内安全を祈ることが『軍人を神と崇める行為』とされるとは...」と反論しているが、
彼は前川氏が批判した意味をまるでわかっていないようである。
乃木神社は軍国主義を礼賛する政治的道具として作られた神社であり、憲法学者の小林節氏の言葉を借りれば、昔から地域社会の中に存続してきた「鎮守の神様」とは一線を画した神社の一つである。
とはいえ、その地を訪れて手を合わせた者すべてを軍国主義者だと言うつもりはない。実際彼はそのような思想の持ち主ではないだろう。
だが、乃木神社の以上のような特質を踏まえると、国会議員としての訪問は政教分離原則違反の問題が生じることを認識する必要があった。
行動にはタイミングというものがある。彼には彼なりの考えがあるのだろうが。正月早々、野党第1党の党首がこのような論争を巻き起こすような行動を取るべきではなかった。
昨年以来、自民党と統一教会、公明党と創価学会との政教一致問題が問題視されているが
これらの問題がまだ終息していない現況で、泉の軽率な政教一致行動は、政権政党への憲法違反問題の追及を党として困難にしてしまった。
安倍死亡以後、教会と自民との関係、その問題から派生した公明と学会との癒着問題はまだ決着していない。
特に後者の問題。テレビ、大新聞は公明と学会の政教一致問題を取り上げないので、これらの問題は世間で広がりを見せていない。
野党第1党もこの問題を取り上げて公明党を追及しようとしない。
こうした全体の動きの中、週刊文春を中心に、複数の雑誌が焚き付けた公明と学会の憲法違反問題は、泉の愚行によって完全に終わりを告げたと言ってもよい。
安倍銃撃後の政局で、立憲には公明党をつぶすチャンスはいくらでもあったはずである。
立憲が政権を本気で取る気概があったのなら、自民と教会の問題はもとより、公明党の憲法違反問題も取り上げて徹底的に追い込む行動に出たはずである。
だが、野党であることに満足している泉立憲にそのような気概はなかった。
そして、今回の浅はかな行動のせいで、立憲は公明党の追及どころではなくなってしまった。
2021年の衆院選に立憲公認で出馬して落選した今井瑠々の自民への鞍替えについて、泉は記者会見で
「政治の世界で活動する者として大きな裏切り、背信行為だ」「政治家として不適格だ」と批判したが、
昨年の参院選で党代表として惨敗したにもかかわらず、けじめをつけることなく今もなお代表の座に居座り続けている彼こそ支持者への「大きな裏切り」「背信行為」を犯し続けている張本人である。
このような鈍感力だけは人一倍の「政治家として不適格」な男にかつての仲間を糾弾する資格などない。
泉こそ「政治家失格」である。次の衆院選で立憲が議席増を目指すのなら、党の政策云々の前に、一刻も早く泉を解任して党の顔を代えるべきである。
顔を代えるという意味では、安倍銃撃の被告人山上徹也の弁護団も然り。
山上弁護団については、すでに12月の本ブログで苦言を呈したが、
1月10日に鑑定留置が終わり、その3日後に山上が被告人になった今でも、本ブログの山上弁護団への不信は変わっていない。
その理由を一言で言えば、彼らのやっていることは、昭和の旧態依然とした日本の悪い刑事弁護のスタイルをそのままを貫いているからである。
時代は変わったことに気付かなければならない。彼らの態度は令和の裁判員制度にそぐわない。
勾留の取消請求を出すだけなら、やる気がないサラリーマン的弁護士や無能弁護士でもやれることである。
そもそも陪審制を採用している米国では、公判前の弁護活動が物を言う。(刑事)裁判のすべてがそうだというわけではないが、
米国では、世間の耳目を集めるようなスキャンダラスな事件は、被告人を除いた訴訟関係者の公判前のパフォーマンス(情報発信)が訴訟の行方に大きな影響を及ぼすことが少なくない。
日本でもそうなりつつある。統一教会問題に詳しい紀藤正樹弁護士の積極的な情報発信活動が新たな世論形成に十分な役割を果たしている。
裁判ではないが、被害者救済法成立は、彼の尽力によるところが大きい。
紀藤氏の活動は今後多発するであろう教会がらみの裁判でも、裁判官への微妙な心理的な揺さぶりになっていくはずである。
裁判員裁判ならなおさら有利に事が運んでいいくことは言うまでもないだろう。
山上の件では、検察が虚偽の情報を報道機関に提供して世論を誘導することで裁判員裁判を有利にしようと謀っている。
以前本ブログでも書いたことだが、発売中の文春(1月19日号)がこの件をうまくまとめているので、以下、引用させていただく。
「昨年12月8日、毎日新聞は鑑定留置中の山上が「母親が統一教会の用事に行って授業参観に来なかった」などと担当医に少年期の不満をもらしていると報じた。」
「ところが5日後の12月13日。山上の弁護団は奈良県警や奈良地検が捜査情報を各報道機関に提供しているとして抗議文を送付した。」
「「裁判前にさまざまな情報が流れるのは予断排除の原則から問題だ」とした上で
「本人に確認をしたが、担当にそのようなことは言っていないとのことなので、事実と異なる」とも明言した。(引用ここまで)
だが、抗議文を送り付けるだけなら私でもできることである。そもそも抗議文を送ったこと自体、世間ではほとんど知られていないと思われるので、抗議の方法としては不十分である。
検察がそういう手を使うのなら、目には目を、ではないが、負けじと弁護団も同じ手を使って、裁判を有利に進めるために、報道機関を利用すればよいと思うのだが、そのような考えは山上弁護団には微塵もなさそうである。
私自身何度も経験しているが、裁判は言葉と情報の戦争である。検察や相手弁護士は、法に触れないことなら道義、倫理など関係なく何でもありで仕掛けてくる。
「裁判前にさまざまな情報が流れるのは予断排除の原則から問題だ」などという神学論争のような抗議は、昭和ならそれでもよかっただろう。
だが、当時と違い、今はメディアが発達している。
令和の裁判員裁判時代に古臭い法の原理を振りかざしても巨大権力には通用しない。
さらに、この弁護団が情けないのは、文春の対面取材に次のように応答していることである。
「報道は危ういなと思いますね。やっぱり彼の思いについて一部だけを切り取っても彼の真意が伝わらない。それが広まるのは怖いなあと思います」と。
だったら、発言を切り取られないように、弁護団がテレビやユーチューブのカメラの前に立って、山上の真意が伝わるように情報発信すればいいのではないだろうか。
山上本人がそれを望んでいない可能性もあるが、弁護団曰く、彼は大学に行って勉強したいなどとも言っているような男である。
そのような男であれば(有罪判決後は)1日でも早く刑期を終えたいと考えているのではないか。そのためにこちらからの情報発信は有利になるのだと説得すれば、彼も承知するはずである。
これまで本ブログで何度も書いてきたように、山上はバカではない。彼が聞く耳を持っている男なら、有能な弁護団であれば彼を説得できるだろう。
弁護団は取材に対して「ちなみに文春さんの記事だって合っていたり間違っていたり、色々ですよ」とも言っているが、
だったら、今回の取材申し込み以前に、なぜ「間違っている」箇所を文春に抗議しなかったのだろうか。
これについて文春が、たとえば具体的にどこがどう違うのか、と弁護団に問うたところ、
「それを言い出すと逐一報道内容の正否を答えることになってしまうので」と回答を拒否しているのだから話にならない。
これは山上の人生がかかっている事柄である。面倒でも逐一間違った報道箇所を洗い出して抗議すべきではないのか。
この弁護団はダメであると言いたい。もしそうでない、やる気がある、本気で権力と戦う気概があると言うのなら、それを証明するためにもまずは検察を訴えてほしい。
山上の身柄拘束を徒に長期化させ、憲法の保障する裁判を受ける権利を奪い、精神的苦痛を与えたとして奈良県警と検察に国家賠償請求するのである。
証人は、まず鑑定にあたった担当医である。山上の頭は当初からまともで、そもそも鑑定の必要がなかったと証言してくれるはずである。、
仮に鑑定の必要があったとしても、早期解放に値した、と。それなのに4ヶ月間、しかもそれでは足りない、というので検察は延長請求まで行い、意味のないさらなる身柄拘束を試みた、と。
その間に奈良県警と検察は、山上に不利となる虚偽の情報を報道機関に提供して彼の人格を貶め、精神的苦痛を与えた。証人は情報提供された報道機関である。
奈良県警と奈良地検への国家賠償請求の要件は十分満たしているので、弁護団が本気でやる気がある、と言い訳したいのなら、山上のためにもぜひ訴えを起こす必要がある。
それをやらないというのなら、やはり彼らはそもそも権力と戦う気がない、やる気がないということになる。
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