安倍総理と西日本豪雨被害と死刑制度について考える 

平成30年7月8日

 


 

7月5日ごろから,西日本が記録的な豪雨に見舞われている。

 

7日になると,多数の死傷者,安否各地の砂崩れや河川の氾濫による被害が拡大していることが伝えられた。

 

7日の時点で,すでに41人の死亡が伝えられた。また,約85万世帯の約193万人に避難指示が出され、4万2000人が避難所に身を寄せた。加えて,多数の安否不明者の行方が懸念されていた。

 

このブログを書いているのは8日夕方で,豪雨の峠を越えた地域も一部あるようだが,各地の土砂災害や住宅への浸水被害は深刻で,死者数も増え続けており,全体としてカオスはまだまだ収束していない状況となっている。

 

話を7日に戻すが,西日本が混乱の真っ只中にある間,わが日本国のトップは何をやっていたかというと,

 

官邸に詰めて,各方面から情報を収集しながら,対策活動の指示に心血を注いでいた,わけがない。

 

7日の首相動静によれば,安倍総理は,午前10時1分から同16分までのおよそ15分間,「7月5日からの大雨に関する関係閣僚会議」に出席したが,

 

午前11時35分にはすでに官邸を離れ,東京・富ケ谷の私邸にさっさと帰って終日を過ごしている。被害状況の拡大が伝えられている中で,東京の自宅に引きこもって何をやっていたのか。

 

今後,日本がさらなる国難に直面したときに,彼が迅速,適正,適確な判断を示し,我々国民の生命・身体・財産を守ることなど到底できるとは思えない。

 

数年前,沈没寸前の船から,大勢の乗客を放置して,自分だけさっさとトンズラしたどこかの国の船長がいたが,安倍総理もその類の人間であろう。

 

1国の宰相として,これほど尊敬に値しない人間はいない。

 


6日、オウム真理教元代表の松本智津夫麻原彰晃)他6名の死刑が執行された。

 

その前日の5日夜、安倍総理は,東京で開かれた40人超の自民党議員との懇親会に出席している。

 

そのときの様子を,片山さつぎ議員が写真付でツイッターに投稿しているが,そこに写っている上川陽子法務大臣の楽しそうな姿はともかく,安倍総理のはちきれんばかりの笑顔を見たときには思わず吐き気を催した。

 

死刑制度に賛否あることは承知しているが,賛成している者たちも,消極的な理由で存続を望んでいるだけであると思われる。

 

凶悪な罪を犯した者は,死をもって償うしかないという消極的な理由,言い換えれば必要悪として死刑制度の存続を肯定している者が大半ではないかと思われる。

 

いくら極悪罪人だからといって,同じ人間である。死刑制度存続を望む国民が,裁判員ならぬ死刑執行員に選ばれたとして,その役割を任された場合,彼ら彼女らは,執行日前日に笑顔で過ごせるだろうか。

 

執行当日,朝起きて,笑顔で東京拘置所を訪れ,笑いながら執行ボタンを押す気分になるだろうか。死刑肯定派でも,多くの者は固い表情で,憂鬱な気分でボタンを押すに違いない。

 

だが,安倍晋三という人間は違う。どうも彼の感覚は,悪い意味で独特すぎる。ウソを公然と平気でつきまくるし,他人の痛み,苦しみもまったく認識・共有できない精神構造,彼の言動を観察していると,自分だけは特別だという世襲議員特有の感性をもった特殊な人間であると思わざるを得ない。

 

このような者が1国のリーダーであるというのは,国民にとっては真に不幸なことである。

 

なお,死刑制度についての私の意見だが,基本的には反対である。

 

基本的,という言い方は,別にごまかしているわけでない。私の考えは多少変わっているので,後日機会があったら書きたいと思う。

 

ここでは「基本的」に反対の理由を2つ挙げておきたい。

 

1つは,国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの意見と全く同じなので,以下のリンクでご覧いただきたい。

 

死刑に関するQ&A


http://www.amnesty.or.jp/human

rights/topic/death_penalty/qa.html

 


2つめの理由は,これも他人の受け売りだが,刑事法学の大御所である団藤重光元最高裁判事(故人)が,著書「死刑廃止論」で述べられている見解への支持である。

 

学者時代は死刑賛成だった団藤氏だが,判事になってから反対派に転じた。

 

1番の理由と言えば,誤判の危険性を排除できないというものである。

 

これに対して,刑事法学界では,団藤氏よりはぜんぜん小者だが,やはり大家だった積極肯定派の渥美東洋氏(故人)が,裁判官をバカにした意見だと批判していた。だが,団藤氏も裁判官であったことを彼は忘れていたようである。

 

それはともかく,団藤氏は,多くの事件を処理していく中で,無実かそうでないかの事案に出くわした場合に,どう判断すればいいのか困難が伴うということを書いている。

 

たとえば,公共の場で人を10人殺害した者がいたとする。目撃者,証人となりうる者は大勢いる。本人も殺害を自白している。こういう事件ばかりなら,裁判官も判断が楽であろう。

 

死刑判決を出すことに躊躇しない,とまで団藤氏は言及していないが,一般論として,この場合に関しては死刑判決にも一定の合理性はあるといってもいいのかもしれない。

 

だが,本当に彼が10人殺したのか,わからないという事件の場合,たとえば,7割がた「彼がやった」という心証を得られたが,3割がたは「別人がやったのではないか」という可能性を排除できない場合に,裁定に困難が伴うことになる

 

この場合,彼が本当にやったのなら,10人も殺しているのだから死刑の言渡しが相当だが,「やっていない」可能性を排除できないという点を強調するのなら,彼はやっていないのだから,無罪を言渡すことになる。

 

だが,やはり彼は7割がた疑わしいのだから,無罪判決は世間的にまずいだろう,そこで,死刑と無罪の真ん中を取って懲役15年,いや無期懲役にする,というわけにもいかない。

 

このようなケースでは,過去の裁判例を見る限り,多くの裁判官が死刑の方を選択している。

 

選択せざるを得ない,という言い方が正しいのかもしれない。死刑制度が正当な制度として存在するわが国においては,この不都合は避けては通れない大問題なのである。





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